自分の身体をすべて使い切って旅立つ(内堀憲三さん・邦子さん)
人が亡くなるという経験は、避けたくても避けられないもの。藤沢市内に暮らす内堀憲三さんは2021年1月13日に旅立ちました。妻の内堀邦子さんは「おおらかな人だった」と語り、亡くなるまでのご家族の時間を話してくれました。
慣れ親しんだ地域に、家族のように温かい病院があり、福祉サービスがあり、薬局や訪問看護がある。「お父さんを中心に、自然と円を描くようにつながっていた。亡くなってしまったけど、お父さんは幸せだったと思う」。生前の憲三さんとの時間を、邦子さんに伺いました。
憲三さんはどのような病気だったのですか?
亡くなった原因は、誤嚥性肺炎でした。お父さんは碁がすごく好きでね。公民館に長いこと行っていたの。ところが、目が緑内障になってしまって。それでも、皆さんと交流するのが大好きで行っていたのですが、だんだんと目がおぼろになってきたのでしょう。碁石を違うところに置いたり、靴を履き間違えたり、そういうことが少しずつ出てきました。
79歳になった頃、本人から「もう失礼なこともあってもいけないからやめる」と、碁を打つことが生活の楽しみだったのだけど、2019年3月を区切りにやめましたね。
そこからの生活はどうでしたか?
ほとんど家にいるようになりました。そうすると、うつ病ではないのですが、何となく鬱々としている感じが多くなってね。若いときは外向きの人だったし、なんか可哀想だなぁと思ったの。
だけど、変に情けをかけられるのも嫌だろうから「散歩はどう?」とか言ってね。外へ出ることは嫌がらなかったので、散歩などをしていました。そこから、2019年の9月頃、ちょっと、ん?って思うことを言うようになったのです。
どのようなことでしょうか?
幻覚なのか、「あそこに人がいるような気がする」みたいなことを言うようになりました。でも、そのときはあんまり深追いせず、「あら、そう?そんなことはないわよ〜」と軽くあしらっていたのですが、本人としては納得いかないわよね。そこにいるのに、私が「いない」なんて言うものだから。
あとは、目が疲れるのでしょう。テレビも本も見なくなり、毎年手帳にきちんと記録する人だったけれど、それもだんだんとやらなくなり、目を使うことを一切やらなくなってきたの。
そうすると、頭もぼんやりとしてくるのでしょうね。音に敏感になり、夜も寝ないで起き上がって、ブツブツと言うようになりました。「どうしたの?お父さん、お手洗い?」と聞くと、「いや、なんか、人がね…」と。これは脳の方も、調べないといけないかなと思いましたね。
病院に相談すると、どうだったのでしょうか?
脳のレントゲンや認知症のテストもしたのだけど、別に何てことないの。年齢相応の詰まりくらいしかないし、病院の先生も「特にはないですね」と。その後も別の検査をいろいろとしましたが、脳からは何も見つかりませんでした。
脳でないなら、精神科の領域かも知れないと紹介してもらい、そこで、軽いお薬を出してもらうことになったのです。
薬で、状態は良くなっていった感じでしたか?
薬を飲み始めたか、始めていないかの頃に、1回大きな出来事がありました。夜中に起き上がり「会社に行かないといけないから、洋服を出してくれ」と、お父さんが言い始めたのです。夜中の2時のことでした。「電車もないし、お父さん、目も悪いし行けるわけないでしょ」と伝えましたが…正当なこと言っても通るわけないの。本人はどうしても行く気持ちだから。
さすがに私も止めました。でも、私が力を入れても、難しくてね。「まぁ、1杯お茶でも飲もうか」と話を変えても、「何で行かなきゃいけないのに止めるんだ!」ってね。
どうにか、その日は止めましたが、私もビックリしました。精神的な何かがちょっとずつ出てきているのかな、今後こういうことが増えてくるのかな…と考えましたね。少し興奮を抑える薬を飲み始めると、少しずつ収まっていった感じでした。
お二人で暮らしていたのですよね?ご家族で話し合うこともあったのですか?
娘と息子がいるのですが、早いうちから、親のこういう状態を見てもらうのは大事だなと思っていました。私がどこまで対応できるのか、自分たちもどう判断していくのか…そういうことを考えられるようにと思いました。
娘も息子も非常に協力的でしたね。来られるときは、家に来てくれて、お父さんの状態を知ってもらいました。夫婦以外の誰かが家の中にいた方がいいことがあるのよね。夫婦は、お互いに甘えもあるから、「うるさいよ」とか「いつもやってあげてるのに」みたいな気持ちになっちゃうからね。
子どもから「お父さんどうしたの?」と聞かれると、お父さんも少しかっこつけて「大丈夫だよ」ということもあるので、私と子ども達で話を合わせて、早いうちから協力してやってきました。
その状態が続いたのですか?
年末くらいまで、その状態が続き、1月を過ぎると、食欲がなくなってきました。2月頃からは、「なんか、唾が溜まって気持ち悪いんだよ」と話し、洗面所へ行って、唾を出し、うがいをすることが増えたのです。
2月から5月で、体重が10kgも減ってしまい、さすがに青ざめました。その頃になると、夜に幻覚が出ても、私の力で止められるの。体重も減って、体力もなくなってきてるからね…何だか、今度はそれが可哀想な気分になってきちゃってね。
そういう気持ちも良くないので、人に入ってもらうようにしました。5月には介護保険の申請をして、湘南中央病院の方がケアマネージャになってくれて、その後は、お父さんはお風呂が大好きだったので、お風呂に手すりをつけようとか、藤沢市から歯科衛生士さんが来て、口腔ケアや口の体操をしてくれました。
お家の中に、いろいろな方が関わり始めたのですね。
介護サービスを使い始めた頃は、少し落ち着いた感じでした。認知症っぽい症状は続いているけど、手すりや椅子を用意し、できることを増やす工夫ができたので。
一番困ったのは、やはり食べることです。栄養剤のドリンクは飲めたのと、幸い水分は摂れたので良かったのですが、39kgまで減っちゃったのかな…。その後、40〜41kgの間を行ったり来たりしながら過ごしていました。
家族も来る機会が増えていったのでしょうか?
来られるときに来てもらうのは、ずっと続けました。娘は、孫もいるので「遊び担当」、息子には「床屋さん担当」になってもらいました。
みんなでしりとり等をすると「なんだよ子供みたいじゃないか」って言いながら、お父さん、嬉しそうなの。やっぱり人との交流って大事なのよね。
それから、お父さんは必ず1ヶ月に1回は床屋に行くというきちっとしていた人だったから、それをちゃんと守ってあげるために、息子にお願いをして、習慣を変えないように毎月連れていってもらって。お父さんの大事にしてきたことを大事にしたかったのよね。
そして、秋頃には、四谷クリニックにインフルエンザの予防接種のために行き、久しぶりにお医者さんや看護師さんに会えたの。お父さんにとって大好きな場所だったから、行けて良かった。「内堀さん、久しぶり〜」と、みんなが集まって来てくれてね。今思えば、あれが最後だったので、あの日、あの場面があって、ありがたかったなぁと思いますね。
訪問看護との出会いは?
「飲み込みや歩行不安定もあるし、利用してみます?」とケアマネージャさんが言ってくれたの。私は介護関係の仕事をやっていたから、当時は自分でできていると思ってたのね。でも、そう言われて「そういう考え方もあるな」と思えてね。医療的な面も心配だし、週に1回来てくだされば状態を見てもらえるかなって、それが2020年11月でした。
ゆいまーる訪問看護ステーションが立ち上がって、第1号の利用者がうちのお父さん。最初に訪問してくれた日のこと、心にずっと残ってるの。利用するとは思っていなかったけど、「自然」な流れで利用するようになったのが、非常に良かった。無理なく、すっと入っていくような感じが、私には気持ち良かったですね。
自然な流れというのはいいですよね。
訪問看護を3回利用して、4回目のときに、お父さんがちょっと熱を出したの。デイサービスを見学する日の前日でした。熱を出したのは初めてだったので心配になりました。
その週は回復したのですが、また次の見学の前に熱を出してしまって。それが、11月末から12月初旬のことでした。その日は日曜日だったので、看護師さんが訪問してくれる日ではなかったのですが…私、何か気になっちゃってね。
1回目に熱を出したときも、私は心配で一睡もできず、30分から1時間ごとに熱を測って、お水も欲しいと言ったらあげてね。今回は、2回目だったので「これは少し普通じゃないのかな、お父さん…」と思ったの。それで、ちょっと看護師さんに電話をすることにしたの。
そこで、救急搬送だったのですか?
電話をすると、すぐに看護師さんが飛んできてくれて、私が「この体調は、すごく気になります」と伝えると、「奥さんはいつもを見てるから一番よく分かるしね」と言ってくれて、スムーズに病院に向かえるように協力してくれました。そのとき、お父さんも「お母さん、病院連れてってくれよ」と言っていましたね。
訪問看護を利用したのは、たったの4回。でも、もう何年も前から知っているように感じましたね。このありがたさは、一生忘れない。お父さんも私もどんなに助かったか。
病院では、肺炎ですと言われ、そのまま入院になりました。「入院するともう面会はできません」と言われたときは、胸が苦しかったですね。でも、それは仕方がない。今は、コロナのときですもの。それがね、12月6日のことでした。
入院後は?
「退院できるのかなぁ…」「もうちょっと、私が看られるかなぁ」とも思っていましたが、病院から電話があって、肺炎は少し落ち着いているけど、もう食事を摂れる状態ではないと話がありました。
胃ろうにするか、点滴のまま亡くなるのを待つのか…「もう食べられない」という状態をもう一度確認して、ぐるぐると考えながら、お父さんが元気だった頃を思い出したの。一緒にテレビを見ていたとき、延命治療の話題で「管とか入れるの、どう思う?」と聞いたら、「絶対にやだ」と言っていたな…ってね。苦しまないのなら、自然に近い形での死…の方が…。
そこからは、点滴のみで、あとは終末に向かっていくことになりました。面会ができないというのが切なかったですね。その後、転院先も決まり、湘南中央病院に行けることになったのです。
湘南中央病院は、これまでも、つながりのあった場所ですよね?
そうなの。私ね、なんだかホッとしたの。家の近くに帰って来られるし、ケアマネージャさんもいるし、これまでの場所に帰って来られた気がしてね。面会はできなくても、何かあれば、すぐ駆けつけられるし。
転院のために迎えに行ったとき、「お父さん、ご気分はいかが?」と聞いたら、「とっても気持ちがいいよ」って言ったの。でも、もう朦朧としててね。私が声を掛けてるって分かっているのかは、分からないけど。
湘南中央病院では、病室に入る前なら、ちょっとだけ面会できると言ってくださり、家族みんなでお父さんに会えました。そのときのお父さん、非常に良い受け答えをして元気な感じでね、やっぱり家族はすごいなって思いました。短い時間でしたが、病院の裁量で、その時間をつくってくれて、ササッと家族写真も撮らせてくれてね。本当はダメなのだと思うけど、そういう優しさや心遣いが、やはり嬉しかったです。それが最後になりましたね、お父さんとの言葉としては。
転院したのはいつだったのですか?
12月22日です。次に会えたのは亡くなる3日前、1月10日でした。病院から電話があり、開口一番「もう長くはない。今日は面会していいですよ」と。
娘と2人で病室に行ったのですが、もう切なかったです。今でも胸が詰まるけど、もう痩せちゃって、点滴も入らないような状態になっていたの。むずむずむずと苦しそうにして、もう言葉も出なくて。今思い出しても切ないのですが、「お父さん」と声をかけても、何も答えなくて…ただ、むずむずむずむずって。
私が近くに手を寄せると、お父さんも、こう一生懸命に手を出そうとしてね。看護師さんからは、大きな声で呼んであげてなんて言われたけど、もう胸が苦しくて呼べなくてね。ただただ手をさすって、本当に胸を締め付けられるようでね。あの姿が、私には残っちゃっていてね、どうしても切なくて。家に帰ってきたあとも…その晩は、寝られなかった。
それで、3日後を迎えるのですね。
亡くなるときには、先生が「時間を決めましょうか」と優しく言ってくれました。「どなたか時計を持ってますか?では、奥さまの時計で時間を決めましょう」ってね。つけていた時計を先生に渡すと「何時何分、旅立ちました」と。
私が時計をしているのに気がついて、それで、その時計を使ってくれた先生の気遣いが伝わってきました。先生にこれまでの感謝を伝えると「内堀さんは苦しいことはなかったと思いますよ。内堀さんは、全部使い切って、旅立った」と先生が淡々と言ってくれたの。
自分を全部使い切ってという言葉を聞いたとき、あ…そういうものなのかなって感じました。痩せてしまっているでしょう。「自分の身体の中にある全部を使い切って生きて、旅立った。それはいいことですよ」と言われて、本当に成仏というか、生き切ったような、全部なくなって、すうっと旅立ったように思えました。その言葉を聞いたとき、私の中で、すうっと何かが浄化されたような気持ちになったの。
全部使い切って旅立つ、生き切るということなのですね。
お父さんはね、変な言い方だけど、幸せだったと思う。私も助けられたけれど、かかりつけ医として四谷クリニックの先生がいて、おひさま薬局の富山さんがいて、そこに訪問看護ステーションがあって…そして、ケアマネージャさんがいて、医療も介護も、全部が気持ちよくスムーズに、何一つ滞ることなく回っていったなって思うの。
何一つ、こちらが嫌な気持ちになることもなく、全部が円になって繋がっていて、その真ん中にお父さんがいてね。その中で生きて、命が終わって、本当に旅立っていったんだなと思うと、それは、幸せなことだなぁって思えたの。
81歳だったので、まだ元気でいられたかも知れないけれど…でも、それが、お父さんの寿命だったっていうことでね。あと、子どもに最期に向かっていく親の姿を見せることは大事ですね。年齢による変化や介護、死に至るまでに人はどういった道を歩むのか、人それぞれ違いますけどね。
亡くなって、1年ちょっとが経ち、今はどんなお気持ちですか?
今でも不思議なのは、数回の付き合いでも、何年も前から分かっているような気持ちになれたこと。お父さんのおかげで、医療や福祉が円を描くようにつながり、お父さんがいなくなった今も、「内堀さん、近いのだから来てね!」「内堀さん、外に出てますか?」と、私も見守ってもらってるの。
何かあれば、助けを求められる方々が近くにいる、そういう心の繋がりがあるだけで、よし、頑張ろうって思えるのよね。何かをしてもらうわけではなく、ちょっとしたお声がけ。歩いていける距離に、それがあるということが大きいですね。お父さんは亡くなったけれども、いっぱい助けてもらったなぁと、そういうふうに思っています。
インタビューを終えて
緊急で入院となる前日、憲三さんは大好きな床屋に行き、夕食には「さっぱりしているし、食べやすいのでは」と、邦子さんが用意したお寿司を召し上がったそうです。冗談まじりに「いつもより高いのを買ってきましたよ〜」と笑わせると「そんなのどうでもいいけど、じゃあ食べるか」と、そんな会話をしながら、珍しく食べてくれた、それが最後の食事だった、と話してくれました。時系列にお話を伺うと「今思えば、それが最後だった」という出来事がたくさんあります。
当たり前ですが、そのときを誰も最後だとは思わないけれど、私たちの人生は「最後の○○」が毎日のように存在しています。毎日をどう生きるのか、できる限り大事にする方法はあるのかと、憲三さんとの時間を伺いながら思いました。
地域の医療や福祉と円を描くようにつながる…、地域医療や包括ケアなど、多くの言葉が使われますが、それが形式だけでなく、心の上でもできるかというのは本当に大切なこと。職業としての役割はもちろん、お互いに「人としてあなたを大事に思う」という人付き合いが大事であり、それが「数回会っただけでも、もっと前から知っているよう」という感覚なのだろうと思いました。