インタビュー

あの事故の日があって、出会えたものもある(車いすラグビー 若山英史さん)

わかやまひでふみさん、海を背景に笑顔で写真

車いすラグビー日本代表として、昨年の東京パラリンピックでは銅メダルを獲得した若山英史さん。藤沢市内でも小学生に車いすラグビーの魅力を伝えるイベントが開催され、若山さんの言葉や人柄にパワーをいただきました。

若山さんは「事故でできないことは増えたけど、あの日があって出会えたもの、広がったものもある」と話してくれました。今回のインタビューでは、プライベートに迫ります。若山さんが話す「出会えたもの」とは何なのか?当時のエピソードとともに伺いました

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若山さんは、どのようなお子さんだったのですか?

良く言えば、明るく元気!…悪く言えば、うるさい子でした
やんちゃなほうになると思います。成績表とかは、よく「落ち着きがないです」と書かれていました(笑)仲間とワイワイするのが好きだったので、学校行事も好きなタイプでしたね。

大人になってからも、性格は変わらないです。車いすラグビーの練習をしていても、誰かしらと一緒に騒いでいる感じです。「また、あいつらが騒いでいる」と言われるので、同じようなことをやってるのかなと思いますね

若山さん
若山さん

プライベートだと、どんなことが好きなのでしょうか?

コーヒーを飲みながら、ドライブするのが好きですね。

コーヒーは、いつもブラックです。お店や豆にこだわりはないのですが、朝・昼・晩、ご飯を食べたあとは飲みたくなるなって感じですね。昔はカフェオレや微糖のコーヒーも飲んでいましたが、最近はブラックです。季節に合わせて、夏はアイスコーヒー、冬はホットコーヒーですね。

ドライブも好きです。静岡が地元なので、綺麗な景色もたくさんあるし、好きですね。音楽をかけながら運転することも多く、音楽のジャンルも大きなこだわりはないのですが、流行りの曲などをガンガンかけながら、運転しています

若山さん
若山さん

ライブハウスとか、みんなとワイワイ楽しんでいらっしゃる雰囲気があります!

そうですね!昔はライブハウスもよく行きました。友人もバンドをやっていたので、結構行っていた印象です。ただ、今はなかなか行けないですね。コロナの影響もありますが、ライブハウスは地下にあることが多いので、車いすになってから、行けていないです。行けるなら行きたいなって思っています。

よく僕らも「車いすラグビーの試合、見に来てください」「実際に見てもらった方が伝わります」と言うのですが、これはスポーツだけでなくて、音楽や映画もそうですよね。やはり熱さのあるものは「熱」のあるところで見るというのが一番だと思います。「生」の良さがあると思っています。

若山さん
若山さん

ここからは、若山さんの「障がい」のことを伺わせてください。頸髄損傷は、事故だったのでしょうか?

19歳のとき、プールでの事故でした。友人と一緒にプールで遊び、もちろん水はありましたが、飛び込んだとき、少し角度がつきすぎたのかと思います。頭をプールの床にうち、首に体重がかかり、首の骨を骨折したという感じでした

あのとき、一人だったら、生きていなかったのでは…と思います。そこには、友人が数人いたので、すぐにプールサイドに引きあげてくれて、大変なことが起きたと救急車を呼んでくれたので、今、生きています

若山さん
若山さん

気づいたら、病室にいた…という感じだったのでしょうか?

いや、記憶が飛び飛びではあるのですが、覚えています。最初は、飛び込んで「あ、痛て…」と思いました。たぶん頭をぶつけた瞬間です。そこで、プールから上がろうとしたのですが、身体が動かなかったのです。プールから上がりたいけど、上がれない。さらに、口にいっぱい水が入ってきてしまって。僕としては「助けて」と声に出しているけど、全然、声にならないって感じでした。

のちのち、友人に聞くと、僕は浮いていたそうです。その様子を見て、おかしい!となり、プールサイドにあげて、みんなで心肺蘇生をしてくれて、それでも様子がおかしいから、救急車を呼んでくれたそうです

ただ、そのときも、不思議と友人と少し会話をしているのです。そこから、僕の意識は1回なくなって、次に覚えているのは、うっすらと救急車の中なのかなという場面があり、次に気づいたら、病院にいました。まさか、今のような障がいの状態になっているとは思わなかったです。目覚めた瞬間は「怪我しちゃったな。ここは病院だ」くらいの感覚でした。

若山さん
若山さん

歩けないと知ったのは、いつ頃ですか?

1週間くらい経ってからだったと思います、「全く歩けない状態だよ」と聞いたのは。その言葉は衝撃でした。衝撃がありすぎて、ショックというよりも、何も考えられなかったくらいです

病院で目覚めると、首を骨折しているので、首に固定術がしてあるのです。だからといって、医師からその言葉を聞くまで、こんなに重い怪我とは思わなかったです。身体の感覚はありませんでしたが、怪我をした人が歩く練習をしているのを見たことがあったので「あれを今後やっていくのかな」と思っていたのです。テレビやドラマの中でよく見る、歩行器で訓練しているリハビリです。あれを自分もやるのだと思っていました。なので、ここまで、がっつりと歩けなくなる麻痺が残るとは、全く想像していませんでした

若山さん
若山さん

障がいを受け止めたと感じたのはいつ頃でしたか?

どうでしょう…リハビリの病院に移ってから、医師にガツンと言われたときでしょうか。「先の人生がどうなっていくかは分からないけど、それでも一人で生きていかないといけないのは絶対」と言われたことで、向き合って、いろいろやらないとまずいなと思いましたね。

あと、前を向けたのは、友人がいてくれたからです。地元の友人が時間を見つけては、お見舞いに来てくれて、退院したら○○に行きたいねとか、ちょうど成人式を控えている頃だったので、退院したらみんなで成人式行こうねとか「あ、頑張らなきゃいけないな」と思えたのを覚えています

若山さん
若山さん

仲間の存在は、大きいですね

どうしても、病室で一人になる時間はいろいろなことを考えてしまい、すごくつらくなりました。ただ、昼間に友人が来てくれると、その気持ちを忘れることができたのです。なので、僕の入院生活は常に暗い生活というわけではなくて、友人がそういう時間を少しでもくれたというのが大きいです

この言葉が嬉しかったというわけではなく、「いてくれる」という存在が本当に嬉しかったです。今もそうです。頻繁には会えなくても「いてくれる」というその存在が大きいです。

若山さん
若山さん

若山さんにとって、障がいとは何でしょうか?

「障がい」は、僕の人生を大きく変えるきっかけになりました。失ったものも多くありましたが、それを通じて新たな出会いもありました。車いすラグビーという自分の好きで楽しいものを、こうやって生活の基盤にできたことも、障がいがきっかけになっているので…本当にいろいろなきっかけをくれたものだと思っています。

障がいと通じて、大事な仲間も増えました。このきっかけがなければ、出会えていない人が多くいます。障がいを負えば良いという話にはなりませんが、僕は僕の性格のまま、新しい世界と出会うことができ、感謝しています

事故がなければと思うことはあります。でも、あの事故の日があって、日の丸を背負って戦える今があるのかなとも思いますし、不思議ですね。だからといって、障がいを負えばでは本当にないのですが、障がいで失ったものもあるけど、障がいがあって今の大事なものもあるという感じですね。

若山さん
若山さん

今後やっていきたいことは何でしょうか?

車いすラグビーは、現役を続けられる限りは今後も続けていきたいと思います。そして、この競技をやったきた自分だからこそ「絶対」と自信をもって言えるのは、「車いすラグビーは本当に楽しい」ということです。絶対的な自信をもって言えるので、いろいろな方に、車いすラグビーの魅力を伝えていきたいと思います。

もっと多くの方に、この競技を見て楽しんでもらえるようにしていきたいです。プライベートも大切にしつつ「伝える」を大事にしたい。車いすラグビーに本気で打ち込み、いろいろな場所でいろいろな戦いをしてきたからこそ、それができると思っています

若山さん
若山さん

インタビューを終えて

いつ事故に遭うかも知れない、いつ障がいのある方になるかも知れない…この言葉はよく使われますが、それでも、障がいのない人にとって「障がい」というものは、やはり遠いのだと思います

そして、若山さんは車いすラグビーの選手として成功している方だから「今の大事なものもある」と言えるのではと、特別な存在のように思えるかもしれません。今回、事故の話を詳しく伺うことで、想いの経過を分けていただくことができました。障がい受容という言葉はありますが、受容できるものでもないと思っています。常に事故がなければ、事故をきっかけに…といろいろな感情があり、若山さんの話してくれた「不思議ですね」と言葉に頷きます

これは広く捉えれば、どなたの毎日も同じこと。人生は、枝別れした両方の道を歩くこともできなければ、見ることもできません。進んだ道でどう生きるのか、何を良かったとフィードバックするのか、その捉え方は一人ひとりの選択なのだと思います。どう努力をするか、どう人生を捉えていくか、一つの出来事から私たちはどのような感情をともに過ごすのか、生きる姿勢も学ばせていただきました

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WRITER

小川 優

大学で看護学を学び、卒業後は藤沢市立白浜養護学校の保健室に勤務する。障がいとは社会の中にあるのでは…と感じ、もっと現場の声や生きる命の価値を伝えたいとアナウンサーへ転身。地元のコミュニティFMをはじめ、情報を発信する専門家として活動する。

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