むぎむぎ通信 vol.12「選択できること(前編)」

代表が書くコラム、柔らかく紡ぐ「むぎむぎ通信」です。

娘は9ヶ月半になりました。1ヶ月ほど前からつかまり立ちを始めた娘は、どんどん視野や動きが広がり、「見たい」「触りたい」「行きたい」「やりたい」…と「○○したい」が増えてきました。
不安定な場所でも果敢にチャレンジ。グラッとすると腰を少し落として倒れるのを防いだり、防げると思ったのに防げなくて転んで泣いたり、一つ一つの動きや表情から、娘の考えていることや気持ちが伝わってきてこちらも嬉しくなります。
そして、彼女はだんだんと「選択」をするようになってきました。

9ヶ月になった頃からでしょうか。家のなかに無造作に置かれたおもちゃで遊ぶのではなく、ゴソゴソとおもちゃ箱のなかに手を伸ばし、おもちゃを掴んで、見て、確認して「違う、違う、あ…これ!」と選ぶようになりました。
初めての選択は「振ると音が鳴るみどり色のトリさん」と「コロコロ進む白いネコちゃん」。ちなみに、赤や青、黄色などの色違いのトリたちもいます。
ゴソゴソ、ガシャガシャ、シャンシャン…ほかの色のトリも手にしたのに「みどり」を選んで、「これこれ」とそれを持ちながらハイハイしていく姿をとても愛おしく思いました。

それから「選ぶ」という光景は珍しいものではなく、あたりまえの日常になりました。日常になると、流れるように過ぎていってしまうのですが、この記事を書きながら、「選択できた」という嬉しい瞬間をまた思い出すことができました。
「これがいい」という気持ちを抱き、それを行動に移すのは、この上ない「わたし」だと思います。娘の「わたし」という自我がとても嬉しく、おもちゃ一つのエピソードですが、これからの人生、彼女が重ねる多くの「選択」が余計な力に邪魔されることなく、「わたし」による「選択」であり続けられるように…私は、その「わたし」や「選択」を守っていきたいという気持ちになりました。
母という立場上、守りたいという感情が強くなりすぎると、「邪魔をする余計な力」になりかねません。守るというより、見守るという距離感を大切にしなくてはと思いますが、この気持ちから大切な本質を教えてもらうことができました。

生きることは「選択」できること。そして、その「選択」は「わたし」によるものであること。
言葉にすると、まとまりの良い言葉でサラッと流れていってしまいそうですが、「わたし」と「選択」は非常に重要な要素であり、突き詰めていくと、非常に難しい要素でもあります。「本人の意思、本人の自己決定」という視点は医療や福祉の分野でも大切ですが、その難しさは似ているように思います。
人間は、人とのつながりのなかで生きています。人との関係のなかでつくられた「わたし」は、純粋な「わたし」ではなく他者を意識した「わたし」であり、「選択」も同様に、環境や状況に影響を受けた「選択」になることがしばしばです。
純度の高い「わたし」や「選択」は、どうしたら出てくるのでしょう。社会性の発達とともに失われていくのなら、娘の何気ないおもちゃエピソードは、極めて貴重なダイアモンド級の「選択」であったように思えてきます。

哲学的な話はさておき、「ともに生きる」の前提ともなる、お互いの「生きる」を保障するためには、自由意志による「選択」をお互いに守っていかなくてはいけないと考えます。人それぞれ性格や状態は異なるので、周囲から受ける影響も千差万別です。
影響の受け方が異なる以上、完全なる「自由意志」というのは難しい話ですが、それでも「邪魔をする余計な力にはならないぞ!」という心がけは大切だと思います。力を加えなくても、相手に力を加えてしまっている。だからこそ、あえて力を加えないように気をつける、これが相手の「わたし」や「選択」を守ってくれるように思っています。
また、多くの人が【私は「わたし」であり続けてよく、私は「選択」をしていい存在である】と思えることも、とても重要になってきます。この話は、次回のコラムで触れていきましょう。
…絶賛、「ママがいなくなっちゃイヤ期」を迎えた娘。「いなくならないよ、パパでもママでもどっちでもいいじゃん」なんて思ってしまう瞬間もありますが、彼女の可愛く成長してきた自我を大切にしていきたいなと、毎日少しの反省をしながら進む日々です。