むぎむぎ通信 vol.11「精神疾患と私(後編)」

代表が書くコラム、柔らかく紡ぐ「むぎむぎ通信」です。

前編では、精神疾患に対する世間の目や本人のなかに存在する受け入れられない心のことを綴りました。(むぎむぎ通信「精神疾患と私(前編)」)。
あの日から2週間が経ち、私のなかにあった「悔しい」という感情は薄くなっていきました。家族の病気は治療が進み、少しずつ状態が落ち着いてきました。本人のなかにある「受け入れられない」が和らいできたように思えます。
私の「悔しい」もそうですが、人は心のゆとりがなくなると、何かを否定したり、何かを怒ったり、負の感情が本来の大きさよりも大きくなってしまうように思います。
負の感情は大切なものなので、なくす必要はないのですが、その感情が極端に大きく出てしまうと、心の余白はなくなり、すべてを持っていかれてしまうような気がします。これは多くの場面でいえることなのだと思います。

私たちの感情はさまざまです。いわゆるプラスのキラキラとした感情だけで生きるものではなく、マイナスの感情を含めて、人らしさであり、どれも美しいのは前提です。また、感情をコントロールできないことも、人らしい美しさだと思います。
どれも大事なものですが、それらが大きくなりすぎてしまうと、私たちは価値観の異なるものを受け入れるゆとりを失っていきます。
今回、治療が進むと、本人のなかにある精神疾患に対する抵抗や偏見が薄れてきました。これは、きっと社会の誰もが同じで、忙しない心では受け入れられる心のスペースは少なくなり、反対に少し余裕ができると、さまざまなことへの抵抗や偏見は和らぐように感じています。
鶏が先か卵が先か論と似ていますが、共生社会を目指すには、合理的配慮などの考え方を広めるだけでなく、そもそも人の心にゆとりやあそびをつくっていく働きかけも重要であると実感しました。

今回の一連の出来事を、相談をしていた保健福祉事務所の方に話すと、「精神疾患への特別感や抵抗感はありますよね。それでも、治療に臨んでくれたことが素晴らしいですよね。自分のなかの抵抗と向き合うの大変ですもん」と返ってきました。
その言葉がスーッと、私の渇きを潤してくれました。不思議なくらい忘れてしまっていた感覚でした。決して初めての発想ではなく、私も支援者の立場であれば、同じようなことを考え、よく口にしていました。
同じ出来事を見て「抵抗感とよく向き合えた」と捉えられるのか、「抵抗感が邪魔をしている」と感情が動くのか、この振れ幅の違いは大きな気づきでした。
「壁」をどう見るのかという違いだと思います。この言葉を選んでくれたことで、壁の見え方が変わってきました。

私の目は、生きづらさを感じている人が見ている「壁」に寄っています。本来、壁には、どちら側にも感情や見え方があるものです。
どちらの見え方も大切だと思い、どちらでもない立場から伝える活動をしてきましたが、だんだんと立ち位置が片方に寄ってきていたのでしょう。障がい分野に抵抗がある人が抱く「壁」をよくないものと考え始めていたように思います。
壁にアナをあけることはお互いにとって大切なことで、お互いに「がんばる」出来事であることを忘れてはいけない。偏見は良くないけれど、そうさせてしまう社会構造は何なのか、そう思ってしまう人の感情や背景をもっと大切にする必要があったことを思い出しました。

いつの間にか、Ana Letterがいう「価値観を広げる」は、「障がいに関心がない人に、障がいのある人の価値観を知ってもらう」という要素が強くなってしまっていたように思います。
人はそれぞれ、さまざまな壁と出会いながら生きていて、その人なりの付き合い方でその壁と向き合っています。同じ壁でも、人によって見え方はさまざまで、高く見えることも低く見えることもあります。
ときには「これのどこが壁なの?」と鋭い言葉が飛び交ってしまうこともあるかもしれません。それでも、立ち止まって、反対側にいる人の目にはどんな壁が映っているのだろうと、その壁を見上げられるようになれたらいいなと願います。

今回、前編、後編でどのように自分が変化するかなぁと書いてみました。気持ちの変化とともに、Ana Letterの大切な方向性を思い出す良い機会になりました。久々に、このサイトの2本目の記事である、5年前に書いた「障がいのアナ」という名前を読み返しました。
同じものであるはずなのに、分類化され、どこか切り離されたものになる。そこに生まれてしまった壁に穴を開けたいーー、そうだそうだ、そうだった。今日も晴れやかに!