コラム

むぎむぎ通信 vol.10「精神疾患と私(前編)」

代表が書くコラム、柔らかく紡ぐ「むぎむぎ通信」です。

このタイトルをつけて、私はどこまで何を書くのだろうと不思議に思いながら、つらつらと書き残したいと思います。

自分のことを公開するのは好きではないのでこれまでも語ったことはないのですが、今回はまるで日記のように自分のことを書かせてもらいたいと思います。

精神科という領域に心が惹かれるようになったのはいつだろうと思い返しても、その始まりは思い出せません。ただ、大学の看護実習でも精神科領域は好きで、大学の卒業研究も人の心に関わることをやっていました。

当時はとりわけ精神科にかかる友人や家族が近くにいたわけではないので、何が私を近づけたのかはわかりません。ただ、私は20代半ばから「精神疾患」と、とても近くで生きることになりました。

今年、4月から藤沢市においても「ケアをされる人もする人も自分らしい生き方ができる藤沢づくり条例」が施行され、より「ケアラー」という言葉を耳にする機会が増えるようになりました。

私自身もいわゆる「ケアラー」でした。このプロフィールはあえて出してきませんでしたが、正確には、過去形ではなく、現在進行形で、いわゆるケアラーなのだと思います。

一時期は、それを理由に遊びに行けない、仕事に行けない、社会資源が大きく不足しているという経験をしてきたので、いわゆる、支援が必要なケアラーの枠に含まれていたと思います。

ケアラーについての話はさておき、どうしてこうも「精神疾患」は受け入れがたい病気になってしまっているのだろうという嘆きです。

何が特別なのでしょうか?昔に比べたら、社会の理解も対応も大きく変わりましたが、そんなことでは拭いきれないもっと感覚的な部分が何も変わっていないと思います。

他の病気と比べても、まったくと言っていいほど、「特別」からの脱却ができていない。これは、世間の目や偏見という大きな話だけでなく、本人や家族など、近くて狭いフィールドでも、「特別な病に罹ってしまった」という拭い切れない感情が、病気を病気以上に大きなものにし、本質の邪魔をしているような気がしてなりません。

精神疾患は誰でも患うものであり、「心が風邪をひいている状態」と、私自身も仕事のなかで伝えてきました。私としては心からそう思っていますが、そうは思い切れない本人や家族を近くで見ていると、苦しいような、悔しいような気分になるのです。

今、「悔しい」と書いて、一番近い感情かなと思いました。精神疾患を「特別な疾患」として位置づける世間の当たり前が悔しく、近くにいる人にすら、「特別な疾患ではない」と心から思わせられない私自身に対して、悔しいのだと思います。

精神疾患、いいじゃない。日々と丁寧に向き合ってきた証拠だよ、いいじゃない。なんで、ごめんねなんて謝るの。いいじゃない。

医療と向き合い始めたことはスタートラインで、ここからが始まりなのに、もうおしまいみたいな顔をして謝る姿を見ると本当に悔しい。そう思ってしまうのは、病気による症状が理由のこともあるけれど、何十年も何百年もかけてつくられてしまった「精神疾患」という特別なイメージの影響も大いにあると思います。

もっと生きやすくするには、焦らず、伝えていくこと、価値観がひろがるきっかけをつくっていくこと。目指す姿はAna Letterの原点に戻ってきますが、それは冷静に考えたときの私の頭のなか。もっと感情的な私の気持ちとしては、「伝える」を大切に生きてきたのに近い人にもうまく届けられないなぁと、「悔しい」という感情が近いなと感じています。

今回はここまで。この気持ちがどう変わっていくのかはわかりませんが、6/20掲載の後編で続きを綴っていきます。

障がいのアナの活動を応援する

WRITER

小川 優

大学で看護学を学び、卒業後は藤沢市立白浜養護学校の保健室に勤務する。障がいとは社会の中にあるのでは…と感じ、もっと現場の声や生きる命の価値を伝えたいとアナウンサーへ転身。地元のコミュニティFMをはじめ、情報を発信する専門家として活動する。

RECOMMENDおすすめ記事