障がいがなければ気づかなかったことがたくさんある、娘と過ごす40年間を振り返って(藤沢市肢体不自由児者父母の会 会長 島村孝子さん)

島村莉奈さんは今年12月で40歳。生まれてすぐに大きなてんかん発作を経験し、以降、重症心身障がい(以下、重心)とともに歩んできました。母である島村孝子さんは、娘と並走し続けながら仲間や行政とつながり、藤沢市肢体不自由児者父母の会(以下、父母の会)の会長として活動を続けています。
こども医療センターや養護学校、20年以上に渡る生活介護事業所への通所を経て、今秋から施設への入所という新しい一歩が始まります。「障がいがなければ気づかなかったことを、たくさん与えてくれた子」、40年の歩みを振り返り、娘と過ごした日々を語ってくれました。

島村さん親子のことを教えてください。

娘は、今年の12月で40歳になります。小学校2年生の夏休みに藤沢に引っ越してきて、鎌倉養護学校(現:鎌倉支援学校)を卒業しました。その後は、生活介護事業所「マロニエ」に20年通い、昨年は表彰していただきました。
娘が重い障がいを持って生まれたので、私はそこで仕事を辞めて、ずっと生活をともにしてきました。娘の下には、妹と弟がいます。今は藤沢市肢体不自由児者父母の会で活動しています。

生まれたときに、障がいがあることがわかったのですか?

出産後、退院をする朝に大きなてんかん発作を起こしました。そのときに医師から「脳がかなり破壊されているかもしれない」と言われました。とてもショックだったのを覚えています。
そうは言われても、手足に欠損などがあるわけでもないので見た目ではわからず「隣の赤ちゃんと何が違うんだろう…」と思っていました。しかし、医師から「みんなが首がすわり、おすわりをして、歩けるようになったときに違いが出てきます」と冷静に説明されました。さらに「これからどうやってこの子のおもりをしていくか」という言葉もあり、その表現にも驚きました。
当時、障がいのある人の存在は知っていたのですが、一生、首がすわらない障がいがあることは全然知らず…。とにかく衝撃を受けながらも、「自分がしっかりしなくちゃ」と言い聞かせていました。

その後の育児はどうでしたか?

こども医療センターに転院して、治療が始まりました。てんかん発作が10分おきにあったり、薬を増やすとずっと寝てしまったり…そんな繰り返しでしたが、こども医療センターでの治療が娘に合ったようで、発作がなくなったんです。
退院後、ありがたかったのは、保健師さんが近くに住む同じ境遇のお母さんとつないでくれたことです。さらに入院中に同室だったご家族ともつながることができました。そうやって早い時期に友人ができたことが、私にとってはとても大きかったです。

幼い頃の思い出も教えてください。

幼い頃は、活発にリトミックやスイミングをしました。どこのプールも「おむつをしている子は入れません」と断られることが多かったのですが、綱島(横浜市)にあるプールが1レーン貸してくださると言ってくれたときはとても嬉しかったです。
楽しい思い出があるのも、やはり仲間がいたことがとても大きいです。人に恵まれたことで、あまりくよくよせずにいられたんだと思います。

お子さんとの生活で、嬉しかった瞬間はどんなときですか?

4〜5ヶ月くらいのとき、初めて笑った瞬間をよく覚えています。ピアノの音に反応して、はっきりと笑ったんです。涙が出るほど嬉しかったです。他にも、ガラガラの音に顔を向けたり、目を動かしたり…。普通の子なら当たり前かもしれないけれど、私にとっては大きな喜びでした。
あの笑顔を見たときは、「もしかしたら、予想していたよりも良くなるのかも知れない。わかることが増えるのかも知れない」と期待してしまったくらいです。
あとは、重い障がいのある子も学校に行けると知ったときです。出産以前に「障がいのある子は就学が免除される」といった内容を本で読んだことがあったので、娘のような思い障がいの子は学校には通えないものと思い込んでいました。「どんなに重い障がいのある子でも、今は学校に行けるんだよ」と先輩ママから聞いたときはすごく嬉しかったです。

3人の子育てを通して、気づいたことなどはありますか?

障がいがあってもなくても、子どもはそれぞれ違うんです。障がいがあるかないかで違うのではなく、3人とも性格も全然違います。
障がいのある子たちは「障がい児」とか「重心」、「医療的ケア」など、何となく括られてしまいますが、同じ「重心」と呼ばれる子どもたちもタイプはさまざまです。
うちの娘の場合、重い障がいはありますが、割と体力があったので、風邪をひいても妹や弟と変わらないくらい元気でした。三人三様、それぞれ違う子どもとして見ているので、障がいの有無という考え方はあまりしたことがなかったです。

振り返ると、大変さと喜びと、どちらの思い出が多いですか?

嫌な言葉をかけられたこともありました。でも、忘れてしまうことのほうが多いんです。思い返すと、人に恵まれた記憶のほうがたくさん出てきます。
ただ、やはり大変だったのは、娘を一人にはできないので、私の行動できる時間とエリアが限られることです。とくに妹や弟の友人のママたちとの付き合いで、それを実感しました。
子どもが小さい頃はあまり変わりませんが、子どもが大きくなると、周りのママたちは仕事に復帰したり、新しく仕事を始めたり、生活のリズムが変わっていき、時間が合わなくなっていきます。そういう社会とのズレが、少しストレスになることはありました。

ご家族の存在については?

あまり口にしてきませんでしたが、夫の存在は大きいです。昭和の男にしてはよくやってくれて(笑)、子どものケアも一通りできます。
夫がリモートワークのときは、お願いをして、私が出かけることもできました。父母の会の活動が土曜日にあっても、その時間のケアを交代できたのは本当にありがたかったです。娘の身体が大きくなり、車いすなどへの移乗が大変になってきたことも共有できるし、相談もできるのが良かったです。

島村さんにとって、40年間は長かったですか?

改めて、数字にしてみると「あぁ、長いな」と思います。でも、それが日常だったので、長いと感じることはありませんでした。
もし、娘に障がいがなければ、年齢的にもう家にはいなかったかも知れないです。下の子たちはもうみんな家を出ているので。
今回、鎌倉療育医療センター「小さき花の園」への入所が決まり、一緒にいるのが当たり前だった娘がいよいよ家から出ていくので、生活が大きく変わります。そのあたりは自分の精神的な面も含めて、少し心配がありますね。

入所を前に淋しさもありますか?

父母の会では医療的ケアのある子でもグループホームや施設入所ができるように…と、その必要性を訴えてきたので、自分が語れるうちに託せる場所を探したいと思っていました。親亡き後を考えると、親が動けるうちに入所先が決まり、一緒に見守りながら、徐々に施設での生活に移行していくのが理想だと考えています。
今回決まった入所先は家からも一番近く、希望通りの場所でありがたいのですが、決まったときは想像以上に心が揺れたのも本音です。30歳の頃から申込みをしていたので、時期としては「ようやく決まった」という状況ですが、正直、複雑な気持ちもあります。
日中通っていた事業所への通所が終わってしまうのも残念です。ただ、入所しても外出や外泊もできると聞いているので、「そのタイミングがついやってきたのだな」と受け止めて前を向いています。

子育てをしてきて、娘さんをどのような存在だと感じていますか?

自分の娘を障がいがあるからといって、病人だとは感じていないですね。熱が出たり、具合が悪くなったりするときは病気かも知れないけど、障がいがあること自体が病気とは思っていないです。
周りから見たら特別なのかも知れないけれど、特別ではない。ただ、娘は一緒に過ごしてきた長い期間で、いろいろな人と巡りあわせてくれました。障がいがなければ気づかなかったことをたくさん与えてくれた子だと思っています。

障がいのある子を育てている家族の方へ伝えたいことはありますか?

サービスを通した1対1の関係だけでなく、「横のつながり」も大切にしてもらえたらと思います。
障がいのある子どもは障がいのない子たちとつながる機会を、ご家族は同年代のご家族とつながる機会があるといいなと思います。
今はSNSで多くの情報を得られますが、顔の見える関係もとても大切です。父母の会など、自分の住んでいるエリアで顔の見える関係があると、具体的な悩みや情報を交換できるし、足りないところを一緒に行政へ働きかけることもできます。個人個人も大切ですが、地域での近いつながりが私にとっては宝物です。

最後に地域の方に伝えたいことはありますか?

地域の人には、「障がいがあるから、声をかけちゃいけないんじゃないか」と遠慮せずに聞いてほしいなと思います。
昔、こども医療センターの院内レストランでご飯を食べていたとき、 私が隣にいる娘にご飯を食べさせていたら、小さな女の子が「この子、どうして食べさせてもらってるの?」 と隣にいるお母さんに聞いたことがありました。
すると、お母さんは「しゃべっちゃダメ、しゃべっちゃダメ」とずっと言い続けていて。 そのとき、私がその質問に答えましたが、そのお母さんがすごく気を遣ってくれているのが印象的でした。
子どもの「どうして?」は自然なこと。私としては、聞いてもらえたら話せる機会になるし、そうやって知ってくれたら嬉しいです。

インタビューを終えて
40年という時間には、「大変だった」「嬉しかった」といった言葉だけでは表せない、さまざまな出来事があったと思います。インタビュー後に、莉奈さんは入所をし、島村さんからマロニエの卒業と小さき花の園の出迎えの様子とともに「改めて、娘は多くの方々の優しさに包まれて幸せだと思いましたし、少し安心しました」というメッセージをいただきました。
取材でも「人に恵まれた」と語る島村さん。強く、そしてしなやかに日々と向き合い、丁寧に歩んできたからこそ、人との出会いを一つ一つ大切に受け止めてこられたのだと感じました。
特別な40年ではなく、そこには、私たちと変わらない日常がありました。その一方で、「入所」や「親亡き後」といった、ほかの人がなかなか経験しない不安や葛藤とも向き合っています。こうした不安や葛藤は、家族だけの問題ではなく、社会の仕組みや価値観がつくり出している面もあるのではないでしょうか。
社会がつくっている「当たり前」が変わっていけば、誰もが安心して地域で暮らせる未来もやってきます。何を「当たり前」とするのかは簡単ではありません。でも、島村さんが分けてくださった40年の日々は、私たちに考えるきっかけをくれています。この記事を読んだ皆さんは、どんなことを感じるでしょうか。