コラム

「あたりまえ」をどこに置くのか

「あたりまえ」という言葉は、広辞苑で①そうあるべきこと。当然。②ごく普通であること。なみ。と記されています。普遍的な基準として使われやすく、それでいて、個人の価値観に寄る表現です。

障がいや病気など、自分の経験から離れた話題に触れるときは、とくに「あたりまえ」という自分の感覚を柔らかくして、丁寧に捉えていきたいものです。

「あたりまえ」は、個人のもの

「あたりまえ」は主観であり、その人の経験に基づくものです。一人ひとりの「あたりまえ」は当然違うのですが、私たちは、探り探り、世間の「あたりまえ」を捉えていきます。

これは我が家だけみたいだから話さないようにしよう、あ…これって普通じゃないのかも?と、どこか「あたりまえ」の擦り合わせをおこなっていきます。

生まれた家庭のあたりまえ、育った環境のあたりまえ、出会った教育や道徳など、多くの出会いの積み重ねで、自分の「あたりまえ」はつくられます。「あたりまえ」は個人のものであり、誰かと一致するわけもないのですが、まるで共通言語のように使用されるようになり、「あたりまえ」は別の力を得てきました。

「あたりまえ」は、人を傷つけてしまう

「あたりまえ」は個人のものであるのに、世間との擦り合わせをおこなうことで、およそ一般的な「あたりまえ」が生まれてきます。一般論と化した「あたりまえ」は力を増し、その「あたりまえ」から外れる人を傷つけてしまいます。とりわけ、障がい福祉などマイノリティといわれる立場の「あたりまえ」は数が少ないので、その対象になりやすいです。

たとえ差別をしていなくても、世間の「あたりまえ」は、その存在だけで人を傷つけてしまいます。なぜなら、少数派の「あたりまえ」は気持ちを伝えるだけでも、かなりの力を費やさなくてはいけなく、ことさら「反論している」という立場にされてしまうこともあるのですから。

世間の「あたりまえ」は、多くの擦り合わせからつくられ、当然のように地に根づき、誰も疑うことなく、固く確かな「あたりまえ」となります。日常に疑問をもつことは難しいことですが、それでも「あたりまえ」を問わなくては一歩を踏み出せないように感じます。

「あたりまえ」に、疑問をもつ

先日、藤沢市肢体不自由児者父母の会が主催する写真展・トークイベント「透明人間ーinvisible momー」に参加してきました(当日の動画:文末)。都道府県や市町村などの設置者や制度で異なるものの、特定の医療的ケアを有する子どもは、特別支援学校で勉強している間、親の付き添いが必要な場合があります。

この課題は問題が多岐に渡るため、賛否はあるでしょうし、私も一看護師として、医師の指示書があれば何でもできると思われてしまうのは納得もいかず、別問題です。「あたりまえ」の話を続けましょう。

さて、特定の医療的ケアが必要な子の親は、当然のように仕事を辞め、毎日学校に待機しなくてはいけません。それは「あたりまえ」なのでしょうか。付き添いに限らず、生まれてきた子どもの状態により、我慢することを世間から当然のように強いられるのは「あたりまえ」なのでしょうか。

「あたりまえ」を、もっと柔軟に

「あたりまえ」に正解はありません。どこかで線を引かなくてはルールもつくれないので、仕方のない問題も出てきます。しかし、それを「あたりまえ」という感覚に委ねてはいけないように思うのです。個人の抱く「あたりまえ」も、過去から凝り固まった世間の「あたりまえ」も、本来は何の力もありません。何かを判断したり、意見したり、目の前の事象を左右できるほど、パワーを待たせてはいけないのだと思います。

自分の「あたりまえ」も、相手の「あたりまえ」も、もっと柔軟に捉えていきたい。個人の経験に基づいた「あたりまえ」はあくまで個人のものであり、世間の「あたりまえ」も一般論でもなければ正解でもありません。それを基準とするのではなく、その「あたりまえ」に疑問を抱けること、相手の「あたりまえ」を知ろうと思えることが大切なのでしょう。基準やルールは、そこから一緒につくるものです。

「あたりまえ」という軸をどこに置くのか、柔軟にその軸を動かせる人でありたい。そして、いろいろな「あたりまえ」が存在する社会のなかで、考えて考えて、考えることが何よりも大切なことだと思います。

8月5日(土)トークイベント当日の様子はこちら ※8月末まで再生可能

WRITER

小川 優

大学で看護学を学び、卒業後は藤沢市立白浜養護学校の保健室に勤務する。障がいとは社会の中にあるのでは…と感じ、もっと現場の声や生きる命の価値を伝えたいとアナウンサーへ転身。地元のコミュニティFMをはじめ、情報を発信する専門家として活動する。

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